昭和46年06月26日 朝の御理解



 御理解 第93節
 「氏子は神の守をしておる者を神と心得て参詣する。守りが留守なら、参詣した氏子は、今日はお留守じゃと言おうが。神の前をあけておくことはできぬ。万事に行き届いた信心をせよ。常平生、心にかみしもを着けておれ。人には上下があるが、神には上下がない。人間はみな同じように神の氏子じゃによって、見下したり汚がったりしてはならぬぞ。」

 万事に行き届いた信心をせよ。常平生心にかみしもを着ておれ。行き届いた信心。常平生に上下を着ておれとそこんところを頂きたいと思う。九十三節は取次者、先生に対するこれは御理解ですね。氏子は神の守りをしておる者を神と心得てと仰るから神の守りをしている者への御理解ですから、その中の教師であろうと信者であろうと、此処ん所は大変に大事な所であろうと思いますね。行き届いた信心常平生に上下を着けたようなきちっとした信心を、上下を着けておる気持ちで信心せよと。
 これは確かに、此処ん所は大事ですね。合楽の方達は誰に言うとなくどんなに夏であってもちゃっとこう男の方なんか特にそうですけど、背広を着こんでちゃっと上着を着けて見えますよね。これはまあ本当にこの暑いのに、開襟シャツ一枚でお話し頂いた方が楽なんですけど、だけどやはり開襟シャツで拝むのと、洋服を着けて拝むのと言うたらね、気分がね。問題はその気分そのものがおかげの受け物になるのですから、なら皆さんでも、モーニングを着たり又は羽織袴を着けられると。
 もうそれだけで気分がシャンとします。そのシャンとするその事がおかげなのですから、やはり修行と思うてここ二十年間、合楽の場合皆さん誰言うとなく行じられますから後からついて来るものもやはり、皆その良い合楽の風習だと思いますね。不思議にですね、今申しますようにきちっとした服装一つからでも、やはり上下を着けた様な信心と言う事はまあこういう処から判らして頂く。
 どうですか夏暑いからと開襟シャツやら又は浴衣がけで、成程それは楽ですけれども、それこそ横座りしても少しも気にならないし、又は寝転んでおっても楽ですけれども、紋付袴着けてからモーニング着けてから、横座りとか寝転ぶとかいう訳にはまいりませんものね。シャンとしておれば暑さもどこえか行ってしまっておりますしね、足が痛い事もないのですけど、楽な格好をしてシャンと座っとかんならんとか、シャンとせんならんというときついです。
 そういう意味でお道の取次者である教師は、紋付袴が一番良いと言う事になりますね。やはり紋付袴を着けたような心の状態がその処にあります。その心の状態がシャンとした、きちっとしたおかげが頂かれる受け物になるのですから、これは小さい事ではないのです。おかげだけはキチッとしたおかげ頂きたいと言うても、自分の信心そのものがキチッとせずしてキチッとしたおかげの頂ける筈はありませんものね。
 それはもう私自身が修行中の頃から、もうこのボタンが夏も冬も、夏服一着で過ごさせて頂いたのですがね、うかつにしてから私は前のボタンを夏でしたが放れておったんです。そしたら御祈念させて頂きよりましたら御神願に羽織の紐がねとこうやって反対の方へひっくり返っているところを頂いたのです。それでハラッと思うてこちら見たら背広のボタンがとめてなかったと言う様にやはり厳しかったですね。神様はそう教えられたですね私に、ですから嘘じゃないです。
 これはもう上着をとって拝む等とはまずした事は御座いませんですし、まあボタンが一つはずれておっても、神様はお気付を下さった。ですからそれは窮屈だとかね、この暑いのにとか言わずにね、その気になったら暑さもねそう感じん、不思議です。はまりですよね、心の。これはまあ形の上から、神様へ向かわせて頂くことの形の上のことであります。けれども形の上にでもそれだけの精進させて貰いますとそれだけのおかげを受けられると言う事です。行き届いた信心をせよとこう仰せられる。
 行き届いたとはどういう事であろうか。それは人間的に非常に行き届く人があります。本当によう行き届く。又或る意味でぼんやりして行き届かない人もあります。だからそういう事ではないと思いますね。非常に行き届いた信心。いわゆる生き届いた信心。万事に行き届いたとこう此処にはありますけど、万事とは此処では何事もという意でなくて、事信心ですね。信心の事に於いては万事に行き届いた信心。
 行き届いた信心をさして貰う。そこでまあ思うのです又一つの例を取って言うならです、広いところに住んでおりますとどうしても掃除一つにも行き届きません。人数が沢山おれば別ですけれども、自分一人が住んでおったら一人住んでおるのに一部屋もあれば良いのに三部屋も四部屋もあると致しますと、どうしても使わない部屋はおろそかになりますね。所謂行き届かん事になります。そこで私はそこ辺のところをね、極度に狭くしていきたい。いうならば窮屈なとでも申しましょうか。
 自分自身を窮屈なところに置いて信心させて貰う。それにはやはり自分自身で自分自身を一つ窮屈にしてみることですね。窮屈な中であるならばです、その狭いところであるならば行き届きますよ。お掃除でもね、一寸散らかっとったらすぐ取片付けますよね。だから私どもは自分自身を窮屈なところに置く、狭い部屋に閉じ込める。私はそういう修行が、行き届いた信心をさせてもらう為に大変必要だと思いますね。
 そこで自分で自分の心の中に矢張り一つの誓いを持つ事です。是はどんな事があっても、お日参りだけは欠かさない。是はやはり窮屈ですよね。気分の良い時だけ参るというなら楽ですけど、是はどうであっても降っても照ってもそういう心の中にどんな事があっても朝参りをする。どんな事があっても晩休むときには、大祓一巻は必ず奏上して休む。私はこの行き届いた信心とはね、そういう工夫から生まれて来るのですから性格的にぼんやりしている人行き届いている人とは、だから大変替わって来るですね。
 行き届いた信心というのは、私どもでもいろいろ自分をきゅうくつなところに置きました。もうこれは子供の時からでしたけれども、どんなところに落ちとっても穀物が落ちとったら必ず拾わせて頂くと言う事をこれは子供の時から常時続けて参りました。何でもないときに道歩いていきよる時に落ちとる。大豆じゃやろうが麦じゃろうが拾わせて頂く。それを拾うてしまうということは出来ませんから、まあお印を拾わせて頂いてからポケットの中にこう入れる。
 もう私どものポケットにはいつも麦やら米やらこうやって入っておりましたです。それを頂くとかでなくそれを拾うことをですね私はもう子供の時からそれを実行しとります。いそがしいときに自転車で行きよりますよね、配達なんかに行く時に米がこうこぼれておりますよズラーッこう、そういう時に飛び下りて自転車を立てといてから拾わせて貰うんです。だから非常に窮屈は窮屈です。
 けれどもね、それが後々にどれぐらいキチッとしたおかげの基になったかと思うときにです、私は行き届いた信心、こうと決めた事をこう行じる。そこが次の上下を着けたような信心にもつながってくる訳じゃないでしょうか。この事だけはと、もう今日は忙しいから神様は御承知じゃから御無礼すると言う事でなからなければ、急いで行きよるとじゃから此処で米を拾うのはまたこの次にしょうと言った様なものじゃない。これはもうどんなに忙しいかろうがどうしょうが。
 だから時にはいろんな失敗もありますよ。まだ小学校の時、私はその時運動会でした。ずうっとこう白い石灰でラインを描きよりますよね運動するのに、それを私は米粒と間違えてたんですね。白い石灰の塊を、だから拾って口に入れたとたん口の中が、それを続けて行くときには、それは子供の時ですよ。私の小学校の時、そう言う事を私は覚えとります。もうお米が落ちとったら絶対拾うものだと心に決めているものですから、それは忙しい。又それによって苦い思いをすることが無いじゃない。
 自分を窮屈なところに置くといった様なことはまだ自分の工夫によってどんなにでも出来るでしょうが、絶対お土地の上に唾をはかない。これなんかも私は青年時代から実行しました。だから大変やはり修行です。けれどもやはりそう決めておりますから、そういう窮屈な中に言わばその事だけには行き届く、その事だけには決して乱さない。だから私は生き届いた信心の稽古をさせて貰うために、そういう自分を小さい部屋に閉じ込める修行も大変に大切だと思うです。
 それが次の上下つけたキチッとした信心に段々なって参ります。これはもう自分の工夫でどんなにでも出来る。只もう自分の気分の良か時には、人の真似の出来んごとある信心するけれど後はすーっと消えてしまうという人もありますけれども、これは自分で自分を窮屈なところにおいとりませんからそうした不行届きな神様に対する不行き届きの事になってしまう。ですからおかげもがばっとその辺のところは差し引かれる事にもなりましょうね。此処は自分の城だと、小さい部屋を自分の部屋と致します。
 すると取り片付けも簡単ですしすぐ出来ますし、又一部屋だけなら男でも花の一つぐらいちょっと飾っておけれる様な心もおきてくる。あの部屋にもこの部屋にもという事ではない。自分をだから窮屈なところに置いておるからそれが出来る、キチッと。又の御理解に、例え一時は難しいことがあっても辛抱して行く間に徳が受けられるとあります。この辺になりますと行き届いた信心、上下を着けたような信心となりますとね素晴らしいことになって来るんです。
 そういういき届いた信心をしかも上下着けたようにキチッとやって行ければ、そういう辛抱して行きよる間に徳が受けられると仰せられる。もう特別設計の部屋は別ですがね、徳が受けられたら、その小さい窮屈な一部屋じゃありません。それこそ十も二十もある部屋に住まわせて頂いてももう徳ですから、自分がして廻らなくてもちゃんと神様が人を使い、ものを使ってきちっとして下さる。
 だから本当に大きなおかげ頂かして頂く為にはまず、手許足許、自分のことを窮屈なところに私は自分を追い込む様な気持ちで修行させて頂いたら所謂行き届いた信心が出来るわけです。行き届いた事でなくて、行き届いた信心が出来る。しかもそれをきちっとするところにです、成程上下を着けたと言う事になって参ります。しかもそれを辛抱しぬかせて頂いている間に、一時は難しい事があっても、徳が受けられると仰るのです。そこで自分で工夫してそのような行き届いた信心をする。
 窮屈なところに自分をおくと言う事になります。そすとね今度はこれは自分でする修行、神様が求めたもう窮屈な修行があります。神様が求め給う窮屈な修行。病気など致しますとやはり小さい布団の中に入ってしまわなければなりません。こんなに窮屈な事はない。出ろうと思うても出られんのです。布団牢とも云われます。だから病気をして起きろうとしても起きられない、又は次にねお金の不自由な、お金。
 昨日も信心研修会で北野の秋山さんが発表しとられました。先日吉井の共励会に参ります時に、往復バスから電車まで入れると五百円余り要るのですね。いつも単車で行くけれども、その日は雨だったから電車バスを利用した訳です。ところが今晩のお惣菜を作らんならん材料を買わんならんと思うお金があと僅かになった。それで帰りにマーケットかなんかに寄らせて貰ったところが丁度その日はお休みだった。そこで仕方ない。それでまあ家にあるもので有り合わせで、まあそれこそ行き届いたことですよね。
 今まで粗末になっておった様なものを、あっちから少しこっちから少し何やらかんやらを少し作らせて頂いたら、偉いご馳走で家族中で今日はえらい御馳走じゃなと言われる様なおかげが頂けたとこういうのである。金があったら魚買うてきた野菜買うて来た。もうそれはお粗末になってしまうところだった。、例えて言うならそういうお粗末になりよる様なものがです、あってその一家が一晩中で残り物を自分の行き届いた心遣い、野菜一つの切り方でも工夫する。
 それがもうこれだけしかないのですからそれで工夫するより他ないのです。私は行き届くとはそういう事だと思う。あぁもう今日は百円のお金しかない。今日一日この百円のお金で一家中の者が立って行かなければならん。さあ神様この百円をどのように使わせて頂こうか、どうぞ万事にお繰り合わせ下さいませと祈りに祈り願いに願って、百円で一日立ち行く事を願わして貰う。私は行き届いた信心とはそう言う事だと思う。沢山あるとね、もうごろごろ買うて来る。
 神様頂きますと言いよるばってん、本当の頂きますにはなって来ない。百円の金で一日間を賄った。もうそのことの有難さが喜びがです、三度三度のお食事の時にもです、あぁ万事にお繰り合わせを頂いてという、喜びいっぱいの生活というかこれは食生活なら食生活の上にでもそれが出来てくる。実に謙虚な姿勢をもって神様に接してくる。向こうて行かれる。千円のお金があれば楽な、けれども百円のお金に絞られると、そこに絞られる絞られる所謂窮屈な中におきますから。
 そこは自然と心は神様に向くのであり姿勢までが謙虚になってくる。これは神様が求め給う窮屈な修行であろうと思う。それは窮屈な修行ではない行き届いた信心がさせたいが為の窮屈だというのじゃないでしょうか。ひと月に限られたこれだけのお金、それでひと月お繰り合わせ頂かんならんから窮屈なことは窮屈な、けれどもそこに行き届いた次の信心が出来る。そういう信心そういう窮屈な中にあって、所謂病気をして布団の中に入るような窮屈な苦しい修行。
 お金が無いなら無いで、それだけで窮屈な苦しい修行、その間にね力が受けられる。それが積もり積もって徳になる。それを辛抱して行きよる内に、おかげが受けられるとは仰せられてない。一時は難しいことがあっても辛抱して行く内には、徳が受けられると教えておられます。その窮屈な間に、力を受けるのであります。伊勢海老がとられる。必ず窮屈な函の中にいっぱいつめて荒波の中に暫くは投げ込まれている。それを生き締めるというそうですね。生きながら苦しめるわけです。
 今まで広い海で泳いどった、海老が小さい函の中に詰め込まれてしまう。それは苦しいことでしょう動かれんもの。しかも荒波の海の中に放りこまれてしばらく、そうして引き締める。そしてそれをそれが伊勢でとれるものなら、東京へ送られたり九州へ送られたりしてくるわけです。引き締められとるから、魚屋の店頭に出てからごそごそはう様な元気があるのである。あれを引き締めずして荷送りした時には、もう魚屋さんに着いたときには死んでしまっている。
 天地の親神様は私どもをね、そういう意味において引き締めて下さる場合がある。引き締められておる今を皆さんが感じさせて頂いたら、どうして私だけがこんな窮屈な思いをせんならんだろうか、どうしてこんな金に不自由せんならんじゃろうか、私だけがどうしてこんなに病気ばかりしているのであろうかと言わずに思わずに今こそ生き締められておることがわかる時に、御礼が云えれる。生き締められてるときに工夫を覚えるのである。力がついてくるのである。
 いわゆる伊勢海老が生きる力を養うことであります様に、私ども生き締められておる時に所謂行き届いた信心が出来るのです。どうぞ行き届いた信心、それには常平生に上下を着けたような信心を。今日はいっちょ御無礼をしようという事でなくそれを自分の心の中で自分を窮屈な中におく様な生き方、同時に神様の求め給うその窮屈な修行というものを、本気で有難く受けさせて頂き辛抱して行く間に力が出来る。
 辛抱して行く間に徳が受けられる。徳が受けられたらもう広々としたところへ出させて頂けるおかげになってくる。その時にはもうその広々としたところが行き届いた事になって来とる。今日は万事に行き届いた信心をせよ。常平生に上下を着けておれと、九十三節のその中から、そこの所に焦点をおいて聞いて頂いたんですけどね、どうぞ本気でね窮屈な修行に取り組まなければいけません。それがそのまま窮屈に取り組むその事がそのまま行き届いた信心になるのですから大事にしていかなければいけないと思いますね。
   どうぞ。